次元交差:人間以上、人間未満

間借り状態のままに地上世界を生きる、はみ出し人間の霊的旅路や思い

意識領域によっても異なる解釈

私たちは主に言葉を使って意思疎通をしています。
とりあえずここでは日本語を中心に考えてみます。

辞書を引くと、同じ言葉でも複数の意味が書かれていたりしますよね。たいていは似かよった意味ですが、時には全く異なる意味もあったりします。
私たち日本人にとっては、それは凡そ当たり前のことで、その時々に文脈等(状況)で判断して理解しているわけです。
でもそれができるのは、私たちは共有する共通概念の下でこの世界を認識しているからですね。

国が変われば解釈も変わる。これはよくあることで、日本的思い込みによって失敗することがあります。
でも、残念な結果になったにせよ、そうした「意味・解釈の違い」があること自体は、誰も不思議には思いません。そうだよね、とか、そういうことか、とかまぁ納得するわけです。納得できるのは、だいたい同じ意識レベルの人たちが作った世界に生きているからなんですね。

でも、同じように見える世界に生きているのに、同じ日本で生まれ育ったのに、意識の重心位置がある領域が異なる場合、どうなると思いますか? 
ひとつの例として、私が理解に至るまでにかなり時間がかかったことを書いてみようと思います。

私は今ここ(肉体を置く世界)が相対世界であることはわかっているつもりでした。でも、相対的には私の人生は酷いもので、他人と比べないにしても…それはもう大変な困苦や困難の連続でした(自他ともに認める状況です)。

数年前、エネルギーが枯渇状態になってしまいました。道をただ歩くのもしんどくて、なにをやるにも時間がかかり…消耗しきって…『もう私の人生、どうでも(どうなっても)いいや』と思うまでになっていました。
それでも『自〇だけはいけない』と思い、なんとか打開する術としてヒーラーのお世話になろうと思ったのでした。
私はこれまで、そういったものを利用することはありませんでした。

ただ、ヒーラーに頼るにしても、世間にはたくさんいます。誰がいいのか? どうやって選べばいいのか正直かなり悩みました。というのも、私は…普通(の人間)ではないから(アカシックリーダーによる指摘です)。スピ系のヒーラーでも、私のような人間に対応できる人でないと、無理ではないか?と。
ネットを検索していて、私の直感が「この人!」と示した人が見つかりました。折しも来日中でした。

2012年11月下旬、私はその人に会いました。
セッションの終わりごろ、私は彼に一つの質問をしました。「私が生まれてきたワケ…人生の目的は何なのでしょうか?」と。
それに対しての返答は「あなたの人生を楽しむために」でした。

私が自分で調べていたヘリオセントリック(占星術)でも、そのような内容でした。それに、何だったか…ほかの資料でもそうでした。でも実際の人生は、これまでいろんな努力をしても挫折を乗り越えても、すぐまた繰り返し訪れる理不尽な…自分ではどうにもならないことで強制終了になってしまう連続でした。だからキツくて辛かっただけでちっとも楽しくなかったし、現状…良くなる材料は無いし、どうしたらいいのか?と思ったのでした。
まぁそれでも、これまで大変だったことを(私が何も言わなくても)彼(ヒーラー)は理解してくれていたようでしたし、私はエネルギー満タンになり凄く元気になったので、そのまま帰宅したのでした。

それから数年後、私は突然気づいたのでした。「人生を楽しむために」という文言の本当の意味を。
私はずっと、ここの世界の基準=一般的人間の定義で「楽しむ」を考えていたのでした。自分にとってウキウキ・ワクワク、嬉しくて幸せや希望を感じることが「楽しい」ことだ、と。
それは一般的にはそうなんです。ここの世界の意識基準では、そういうことで間違いないのです。

でも、意識レベル(領域)を何層も上げた場合、それは少し違った意味になるんですね。肉体意識に統合・依存しなくなって来ると、それは方極に寄ったものではなく、『どちらも』とか『すべて』になるんです。つまり、人生の良いこと悪いこと、嬉しいこと辛いこと、どちらでもないこと、そういったすべてのことを経験すること自体が、地球・地上世界を、もっと言えば人間を「楽しむ」ということなのだ、と。それを理解した瞬間、腑に落ちました。

知識を得る喜びだけでなく苦労も知る。幸・不幸、喜びも嬉しさも悲しみも寂しさも…そういった人間の人生を体験できることが「楽しみ」というか、それらを「楽しみ」とすること。それが、私が生まれてきた目的。(目的というよりテーマと言った方がしっくりしますね)
なんとシンプルなことか! 私は人間の世界、そして社会のどんなことも「楽しみ」としなさい、ということなんですね。地上世界で起こることを経験・体験すること自体が楽しみなのだ、と。そして私に起こる非日常(霊的なこと)も体験できること、それも楽しむこと。それが苦しいものでも。
まぁでも…正直言えば、嬉しいこと半分、苦しいこと半分ならいいのになぁ…と思っているのですけど。