次元交差:人間以上、人間未満

間借り状態のままに地上世界を生きる、はみ出し人間の霊的旅路や思い

~は見たいものを見る‐もう少し

昨日の『人間は見たいものを見る』の内容が今一つ足りないなぁ、と就寝前に気になってしまいました。なので、もう少し書いてみようと思いました。…って、それでもちゃんと書けるかはわかりませんが…。

『人間は見たいものを見る』のだから、人は自分が見たいと意識しているものを見ている、または見ることになる、ということですね。それらは当然、ここの人間たちの共用する集合意識をイメージしている=肉体の視覚を通じて認識したものを記憶領域に記録して、それを必要に応じて呼び出すことをしている、ってことになるでしょうか。勿論、視覚を通して見ながら同時に考えたり想像したりもしているのですね。それが画像イメージとしてある場合は、アストラル体が強く働いているというか…。

何故このように回りくどいことを書いたのか?というと…。
私はイメージすることが苦手なんです。勿論、眠ったら夢を見ることはあります。ちゃんとした映像で。でも自ら何かを想像して、それを画像や・映像で脳内に映し出す?ことが上手く出来ないのです。
例えば『~をやって上手く出来た時を想像してみましょう!』なんて聞きますよね。スポーツ選手がよくやるポジティヴなイメ・トレみたいな。私はそれをどうやるのかが…わからない。。。
『上手く出来た時』の意味は分かっても、そうなるという強いマインドを維持できないからなのか、それを自分の姿として画像・映像化が出来ないのです。例えば走る競技だったとして、スタートから走っている段階やゴールのことも、そういうプロセス自体も映像になりません。走っている感覚になることも無いです。できるのはただ、そういう概念を持つことだけ。想念が「絵」として結ばれない(収束しない)から、替わりに一瞬、概念として思い浮かべるというか、意識に上る。それだけです。

そうは言っても、かつて全く出来なかったのか?と記憶をたどってみると、出来た時期もありましたね。それはたぶん20代前半の頃だったと思います。瞑想みたいなことをしていて、自分の意思で作り上げて(ボンヤリ?)見えたものを少し動かすようなことでした。でもそれも僅か2~3年間のことでした。ちなみに現在は「瞑想する」ということ自体が出来ません。

というわけで、私は現実的物理的世界で肉体に繋がる視覚では見たいものを見ている。でも内面的な世界では、見たいものでも具体像として脳内スクリーンに映し出すことは難しい。それが意図的であればあるほど。そして私の場合、そもそもマインド維持が難しいから、「私は人間だけど、霊的分野のことに於いては見たい(と意識する)ものを(自分の意思では)見ることが出来ない」というわけです。でも、(誰かに・何かに)見せられれば見えちゃうわけですね。先入観を持つ間(時間)も無く。ただし、私の霊的な部分が受け入れれば、ですが。その選択は、私の意思では出来ませんから、見たいと思っていても見れることはまずない、です。まぁ思ってないから見れないのでもありますね。

私は普段、精神世界やスピリチュアルなどについて意識することなく普通に暮らしていますから、…っていうか生活や人生のこともあまり考えていない=なんも考えてないから(笑)、いつもニュートラルな状態です。
あぁダメだ、やっぱり上手く書けない。。。 もう…この話はおしまい!ということで。
でも、パラン占星術アキレウスのことだけ、次にチラッと…チョロっと書くかな。関係があるかどうかは…よくわからないけど。