次元交差:人間以上、人間未満

間借り状態のままに地上世界を生きる、はみ出し人間の霊的旅路や思い

希死念慮には理由があるのか?

今日はちょっと重いテーマなのですが、急に思い立ったので書いてみようと思いました。
まず最初に宣言しておきたいことは、私は精神科医でも心療内科医でもありません。さらに、カウンセラーでもありません。要するに、専門家ではない、ということです。

なので、これから書くことはあくまでも私の実体験から認識できたこと…というか、感じたり気づいたりして『そうなのかも』と思ったことです。
余談ですが、私はカウンセラー(資格者)からカウンセラーの素質がある・向いている)と言われたことがあります。また、スピリチュアル関係ではヒーラーの素質があるそうです。まぁどうでもいいけど…。


それでは、「希死念慮には理由があるのか?」についてです。
よく…「〇にたい」と口にする人・希死念慮がある、という人に対して「どうして?そう思うの?とか「なんで〇にたいの?」と質問する人がいます。もしかしたら精神科医(または心療内科医)もそのようなことを聞くのかしら?
それに対して、そう思う当事者がどのように答えるのかは知りません。〇にたい理由を言うのか、そうでなくただ『わからないけどそんな気持ちにある』と言うのか…。

少なくとも私は自分自身について『〇にたい』の両方のケースを体験的に知りました。
1つは、自分が関わっている世の中のこと=仕事でも生活でも実生活を送る中での様々な抑圧・ストレスから解放されたいという強い想いの中で、何もかも嫌になって終わりにしたい=〇にたい、という願望が湧き上がってくるというもの。
もう一つは、差し当たって上記(1つ目)のような状況にはないのだけれど、その時点では全く考えても思ってもいないのだけれど、突然、心の奥底から『この世界を去りたい』みたいな感じが押し寄せてくるというもの。

1つ目のケースは、まぁ…原因を探るべく切り分けて考えて行けば、何が『〇にたい』という願望を起こしているのかがわかりますね。具体的に「何が」とまではわからなくても、そのようなことに関係して起きている、と。だからまだ対処の仕方はあると思うんです。そうした不安のようなものを一つひとつ見つけ出して(認識して)取り除く方向にもって行けばいいわけですから。
ただ、2つ目のケースは厄介ですね。なぜなら具体的に何も理由を思いつけないのです。急にそんな気持ちに襲われて、『どうしてだろう』と考えてみるのだけれど、何の理由も考え付かない。そうこうしている間に、どんどん『〇にたい!』という気持ちが強くなって、実際にそちら方向に心が走り出しそうになるんです。


この2つ目のケース。私の『〇にたい』という思いは心の奥底…もっと言えば魂レベルから自然に?湧き上がって来たような感じでした。それは…上手く表現できないのですが…人間という存在=肉体を持って此処の世界で生きているということ自体がなんか…嫌みたいなのです。なんていうか、ここの世界そのものが自分の世界ではない、肉体を持つこと自体が何かおかしい=本来の世界へ行きたい(戻りたい)、と望んでいるような。。。 だから実際には=厳密には「〇にたい」のではなくて、自分にとってしっくりする、肉体を得る前の…というか肉体を持たない存在でいることができる世界?へ帰りたいというだけのこと、ということですね。


実は私は肉体が…変な言い方ですが…付け足しのようなものであることを知っています。肉体が無い(肉体を全く意識できない)状態で=自分という意識だけの状態で存在できることを実体験から知っているのです。そしてその意識は自由に飛び回ることが出来ることも。ここの次元だけでなく、時間の概念からも解放される高次元へ行けることも。(個の意識としては6次までなのだそうです)

だから私にとっての「〇にたい」とは「アストラルをも越えた先へ」、もっと言えば「エーテル体をも切り離して地球以外の、しかも更に高次の世界へ」ということになります。その意味で?私「〇ぬこと」自体には恐怖を感じていないことも事実です。この世界で「〇ぬこと」=「肉体を脱ぐ」ことですから。


少し話がそれましたが。
希死念慮には理由があるのか?」という問いには少なくとも2つの理由がある、というのが私なりの結論です。「地上的実人生に於ける理由」と「霊的な理由」の2つ。
そして、「霊的な理由」の場合は、肉体を持つ人間として「希死念慮」が湧き上がって来ても『そういうものだ』と納得するしかありません。肉体の自分とそうでない自分は別もの。そもそも肉体は容れ物なのだから。

ならば「希死念慮」を実行に移してもいいのか?と訊ねられたら、私は明確に「それはダメです」と答えます。どんなに嫌でも辛くても、ここ地球の一部になることを望んでいたはずですから。
勝手に(自己都合で)〇(=4)を選ぶということは、ここ=地球世界の責任を放棄することですから。もし、この世界に共に存在する誰かのために、共生社会のために犠牲になってしまったのなら、それは尊いことです。その場合は責任を全うしたことになるでしょうね。

霊的な理由の「希死念慮」は、言ってみれば本能みたいなもので、誰にもあるものだと思います。
ただ、肉体同化&依存の地上生活を謳歌している者は、(良し悪しは別として)容易には感じないのだと思います。繊細なアストラル体を持つ者は、より認識しやすいかと。
もし湧き上がって来てしまったら、『自分は未だその時じゃない』『これは人間だから当然のこと』と、その思いを否定せずに流してしまうのがいいと思います。実生活の中のどんな小さなことでもいい、何か自分が好きなことに意識を向けて、やり過ごすのがいいですね。
ぶっちゃけ、逆に?、『そんなことを(今)思う私の魂はどうなってるのかな?』なんて探ってみるのもいいかもしれません。